演劇とはなにか?1
自分はもしかしたら、演劇というものが嫌いなのかも知れない。
まだ若輩の大学生だ。
人に売りつけられるような公演を打った事も無い。
しかし比較的多くの演劇を売りつけられてはきた。
勿論こちらの能動ではあるから、そういう言い方は誇張があるが。
しかしそう言っても許されるのではないかと思えてしまいそうな、独特の許し難い傲りのようなものが、演劇の世界には充満しているようにも、最近には思えるのである。
当然自分は、演劇と呼ばれる中でのあらゆるジャンルのあらゆる作品を細やかに見通してきたような人間とは違う。
そんな人間からすれば、甚だ高慢な糞餓鬼の戯言のように思われるかも知れない。
ただし、そういう人間たちは、常に好意の目を持って観劇に臨んでいるということだって思い返されなくてはならない。
辛辣な批評家であっても、その演劇という土壌自体の面白さを疑って評価を下すものはそう多くあるまい。
演劇に携わる全ての彼らは、常に演劇に対し肯定的な眼差しを絶やさない。当然といえば当然か。
しかしそこがいけない。
人間の手からなるものを、どうして純粋に賞賛し切ることが出来る?
ましてや演劇などという、人間社会のこぼれ者のような芸術に、何を求め得ようか?
音楽や絵画といった芸術を引き合いに、演劇という鍵括弧で括られそうな「芸術」を疑ってみようか。
簡単な話だが、そもそもその対象とするところが、それぞれの芸術では異なっている。
音楽や絵画は、自然にあるものを対象として捉える。自然そのものかも知れない。
対して演劇はどうだ。
それが捉えるものは、人間だ。
これは大いに不完全な存在である。はるかに自然に劣る。
どちらも美を持つものと表現しても構わないかも知れないが、
自然をそのままの形で美を保つ純粋美とすれば、
人間はそれを求めるもの、真似るもの、享受するものであって、何にせよ美に対して二次的な派生美なのである。
演劇はそれを対象とする。この時点で既に欠けている。
音楽や絵画は、ある種の憧憬なのである。
その美の本質に近づき得ないことを知っているから、それであれほど美しくなれる。領略し得ないという、重要な自覚があるからこそ、反対にその制限のうちでし得る限りの最大限の美しさを見出す。
演劇に携わるものにはそれが無い。
皆、自分の知る演劇こそが最善と、奢っているよりほかが無い。
美には決して近づき得ないこと、そして対象が欠けている存在であるということ。これを忘れる。
それが許し難い。
そもそも純粋な芸術ではないということも出来るのかも知れない。常にこれらは社会の反映として世に現れる。(絵画や音楽にもその側面はあるが、それがそれらの常ではない)
芸術の次にある、文化とでもいうべきものであると言えるのかも知れない。
小説や映画はどうだ。あれも状況は同じだ。
しかしあれらは、実体的な生活とは決定的にかけ離れている。
小説はそもそも文字であるし、映画は過剰な取捨を伴う。
容易に対象とするそのものに近づき得ないことが、行為者に自覚されるだろう。
演劇にはそれが弱い。そのことが、演劇に対する誤った信仰を与える事になるのだろう。
臨場感やら、迫真という言葉に騙されて、感動とか核心的とか好き勝手なことを言う。
本当に嫌いだ。
一歩引いて見てみろ。
そこには愚かな生き物の醜い営みしか転がっていないぞ。
白けていなければ、中中「立派」と呼べるものを成り立たせることは難しいだろう。
実は最もよく似ている状況にあるのに、哲学があるだろうか。
人は皆思い思いの哲学に縛られて生きている。
しかし本当に強力にそれを成立させたいのなら、その底流の諧謔は須らく備うべきなのである。
人生の花
俺は早死にするんだろうか。
苦痛しかない徹夜が終わり、今ふとそう思う。
俺の精神は人より常に働いていると思っている。
つまるところ過剰なのだと。
それの影響、
“ガタ”みたいなのは既に身体に現れていて、
この 目のクマ や 頬のこけ は 一生治らないんじゃないかとさえ思う。頭痛が続く。
人生は短い。
仮に30年やそこらで終わってしまうと想像する、
余りに短い。
この人生を俺は大切に扱ってきた。
恐らく誰より大切に。
しかしそのせいで保守的な、
詰らない生命でもあった。
俺は誰かに恋焦がれたことは無い。
しかし人間の、人間的な生命を駆動させるのが、
他でもない“情熱”というものであるとするならば
(それは大いに有りうる事だが)、
生命の最終の本質は、情愛とか慕情という、過熱気味の精神なのではないかと俺は思う。
人生は短い。
後10年もあるか分らない。
せめて生きている間に一度でも、
身を焼いても構わない心地で恋焦がれ
己の命の短さを知りながらも気高く弁をひろげる
血のように真赤な花を咲かせることが出来れば良いと願う。
そうあるべきだと思う。
Flower of life.
それが俺の生涯の最終か。
ついったからはみ出た
書きたい文字が日に日に溢れて出てくる
140文字を積み重ねるのでは次第に限界が見えてきた
言葉は垂れ流さなければならない
生き方が他に無いため
内容の傾向は当然決めてはおかない
言葉は自らにとっての生命そのもの
荒波がうねる様に
猛き脈をもって
それらを立体的に見せる必要がある
息をするように
生身の律動を伴って
躊躇いを許さないで
ここではいかなる言葉も拒まれてはならない