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自由病者現代野放図

 

欺瞞に満ちた偽物の「自由」がさも生まれながらの権利のように、酸素と窒素との隙間を跳梁跋扈している。

既存する社会から目を背け背を翻してよい理由など一つもない。

他ならぬ道徳の為、ひいてはアンチ・インディヴィジュアルな人間的生存の為。

 

現代人による、「自由への逃走」。
divideできない最小単位であるところのインディヴィジュアル(個人)への埋没が、現代的「自由」の正体。
インディヴィジュアル同士が(人間としての)同種感覚を見知らぬ他者には拡張しないため、種としての生存本能は限定的になり、人間同士が喰らい合う弱肉強食の世界が出来上がる。隣人とは、「死んだって構わない」別種の動物なのか?


依然生物学的な意味での、(つまりは、客観的な意味での)「人類」という分類は存在するのに。

科学の絶対性を疑うなら疑え。主体者としての主観も時には必要だろう。時には。

しかしこれが自己内部のみにおいての客観(一般)になれば、それがその外を捕食する。

つまり狭い個人的世界の常識(ルール、良識)が、人間各々に膨らみ合って、領土保全の戦争を繰り返すことになるということ。(錦の御旗は至る所にてはためく。)

 

現代的「自由」はただの精神的引き篭もり。

安穏とした「先延ばし」への逃避。

他者を省みなくてよいのは楽だろう。未来をわずらわなくて済む。
しかし現実(事実)には、自分さえ(または家族さえ、自国民さえ)幸せに90年間生き延びれば良かろう、などという放埓は“道徳的に”筋が通らない。


自由は定言的「義務」のためにある。前提命題の無い義務、詰まるところの「倫理」、これは極限善の為ではない。

古人が超越的感性で感得した“生存”のバランス。理屈になる前の、天才的勘による「人類」延長のための方略が、「道徳」という曖昧なもののほんとうの正体である。

つまり生きる術というわけ。

 

統合的な、いわばインテグレイティヴな「人間性」を、インディヴィジュアルな「人間性」に対立して打ち立てる。

統合的「人間性」、これは人類が人類として(分類上)ある以上、存すると言わざるを得ない。現にそれをもって、人は人に共感する。他人を猿とは考えない。どれほど野蛮な変態でも、それを猿とはみなさない。(比喩による罵詈を除けば。)

 

それならば、我々個人的な「人間性」が状況に応じ(自らの信条に従って)、自分自身に「かくあるべし」という義務を負わせて、人生の選択を行っていくのと同じように、(というよりその選択ひとつひとつが人間性(パーソナリティ)を形成していくのかもしれないが、)

統合的な「人間性」もまた、当然義務的選択を歴史の都度行う「べき」なのではないか。

 

最後に、最も重大な現代人の病質を問う。

「義務はあろう。ただしそれを理解していようと関係なく、それを顧みたくはない。義務なんぞ、したくないからしないのである。」

ひとくちに言って下らないが、この自由病者の傲慢は、現代人それぞれの内部に無意識に行き渡っている。

それだけならいいかもしれない。俗っぽい言い回しをすれば、「他人に迷惑をかけないならば。」

自身に受苦を被らなければ。

 

現実はどうだ。鬱屈した早朝の特急列車、ブラック企業?自殺率、「日本死ね」。安倍政権がどうの、選んだのは自分だろう。強行採決、忖度は日本人の通底気質。一億総文盲。解釈、分析、構造、行間、見抜けない。文化的失読症者たち、中身の要らない教育。

 

Twitterで愚痴を笑いに変える。共感。慰め?何かが変わった?変える気ない。

僕の闘争論は浸透しない。しないだろうから予言だけする。若者に勝利は訪れない。

闘い方を知らずに餌を待て。知らぬうちに豚小屋の中、老いて朽ちようじゃないか。大志はいらない。

 

餌を乞う精神的家畜が、牢獄のアパシーを語るのは甚だ馬鹿馬鹿しいということ。

 

それでも言うのだから。

「どうせ世の中は変わらない。労力をかけたくないね。世の先がどうなろうと関係ない。関係ないんだよ。」

「したくないから、しないんだ。」

「それを選ぶのは、僕達の“自由”さ。」