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できるだけ簡単な言葉で書いたさみしさの説明

自分がある問いを打ち出した時に、それに対し自らでは生み出し得ない回答案をくれる人間(できれば女の子で)が欲しい
そろそろそういう新しい刺激があってもいいはずなのだけれどこれが中々困難


相手が見出しうる発想の集合を(もし)自分の発想の集合が包含して得て(いると思って)しまっていたら、じっさいその人と何を対話すればいいという事になるんだろう
更にその相手が、その当人の発想の集合を更新し拡大させる生産能力を持たない(もしくはそれに乏しい)としたら
これは仮説の話ではなくて、そういう手合いはかなり多いように思える


実際には内心で生産的活動を行っているのかもしれないが、何らかのしがらみの為か、それを現実に外に出して表明するのは難しい(と考えている)らしい
それに対して発見も変質も確認できないとなると、その相手はただその外見を珍しがったり愛でたりするための、造形物か良くて美術品に過ぎなくなってしまう


当たり障りのない範囲で融通を利かして喋り合って、その中で何気なくさり気なく差し出される新奇さを見逃さず掬いだして、それを楽しむという方法もありだとは思うけど、それは犬猫でも補える
しかもいずれ累積の会話の中で類似の情報が纏められて、新奇さが新奇さでなくなってしまうような気がする


不変の中で繰り返しを味わうのも、自らが変化を望んでいるとすれば(しかもそれを第一の基準としているなら)、当然全くその幸福の度合いを満たせない
結局その相手(の言説一つ一つ)が予測可能な姿をしている限り、その退屈は打破できない
ニーズの違いとして諦めるしかないんだろうか


逆になぜ周囲のそういう人達の関係には飽きがこないのか


類似を見出さないで(見出さないようにして)それぞれの会話をバラつかせたままにするか(またはできる限り過去の会話を忘れるか)、飽きが来ればその関係を解消するような消費的な(ドライな)関わりを渡り歩いていくか(それをするには十分に人間の数はある)、予測を行わないという方法もあるかもしれない(それを人間として過ごしているものが出来るのかは分からないけれど)
ともかくどうにかして飽かぬようやれるらしい


もしかしたら自身が変化しないよう維持することが最大の努力で、それに応じて周りの状況を変化させているのかもしれない


こういう相手はやっぱり観察すれば造形物でしかなくなってしまう
当面のあいだはもの珍しさから刺激もあるが、サンプルを取りきってしまえば飽きる


「サンプルを取りきる」のもそんなに難しい作業じゃないと思う
対象の(少なくとも自分に対して見せる)限界と、体系を書き出すのに集約される
体系にかんしても、既存の性格類型に(望んで)当てはまっていることが多い

ひょっとすると、類型の集合を、同じ人格で集まり拡大させることで変化を模しているのかもしれない
しかしともかくその類型もサンプルを取りきってしまえば今度は類型ごと飽きてしまうことになる


やはり大胆な生産能力は必要に思える
まあ結局自分が変わるしかない
準備をするだけして待つしかない


というか世の中を変えるしかない
いまは世の中はがっちりと固定されている

日常における記憶の効率化のための抽象化の方法の明文化①

 

キーワード:ナンバライズ(数化)、グルーピング(?)…色分け

 

昨日コンビニでものを買った
僕は自分が何と何と何…を買ったのかということはすぐ忘れる
5つ買ったことだけを覚えていた


さて、それらのものは質も値段も当然様々である
食べ物飲み物や煙草を買ったのだが、食う順番などはなんとなく決まっていた

中でも煙草は自分の中ではっきりと際立った商品だったので、残りは4つである

 

この4つは、ほとんど覚えていなかった

つまり、ここには4という数的事実があるだけで、自分はその内容(物体の質、値段的価値)をほとんど記憶していないわけだ

しかしこの場合はそれで十分だった

 

ちなみに、もっと具体的な内訳を言うと、

煙草1

ポテチ2

揚げ鶏1

コーラ1

となっている。

わけだが、自身の脳内では、言ってみればせいぜい

黄色1

紫2

赤紫1

赤1

くらいの抽象的な記憶しかなく(あくまで例えて言ってみればね)、しかしそれで十分だったわけである

 

あとは、ビニール袋を覗けばポテチが(1ではなく)複数入っていることは理解しているし、そうすれば煙草を除けばあとは2つである

 (この、ポテチ「2つ」がほかと違い一商品だけ、という情報がまたわかり易さを産む)

 

コンビニを出てすぐに「何か」を「食おうと」していたのは覚えていた

出てすぐに煙草(5-1=4)を移し、袋から揚げ鶏を見つけ食う(4-1=3)

(自分にはコンビニを出てすぐに買った油物を食う習慣があることを知っていた)

 

あとは、帰りの道を歩きながら、何を買ったのか覚えてないながら袋を探れば、ポテチを食うつもりはなかったことは知っているから(3-2=1)、残り1つを探せばコーラがあることを見つける

いや、さすがにコーラの存在くらい覚えていたはずだが、ともかくそれを手に取れば、そこで最後に、それ以外の何かを買ったか、などということを思いめぐらす必要がなくなるわけで(1-1=0)、まあこの出来事自体はさほど重大な一連の事実というわけではないのだけれども、

 

ここで重要なのは、記憶をナンバライズしてしまうことによって、思考において、「記憶の負担を軽減」することができるということにある

あとは色分け(グルーピングに近い)程度できれば、一連の行為を完了するには十分、ということになる

 

☆煙草(1:4(=飲食物)の1)…大きなカテゴライズ分類

□煙草と揚げ鶏(コンビニすぐの2)…習慣の知識

☆揚げ鶏(煙草揚げ鶏-煙草=1)

☆ポテチ(唯一の複数性2)…数的差異

☆コーラ(残り1)…消去法

 

こういう、ビニール袋の中という小さな範疇でのことや、その中身が減少していくばかりの出来事の場合は、こういう考え方は、買った商品を全ていちいち覚えているよりも、脳みその省エネをしているようで楽である

実際ほかのことに思いを馳せることに気が回る

 

僕は忘れ物も多いのだが、財布をなくす前はよく、出かける前に3点セットの確認を行っていた

財布、携帯電話、定期入れ

の3つである

正直、確認する最初の瞬間に思いだすのは、

「財布、携帯電話、定期入れ」

ではなく、

「3点セット」 

という文言である

ポケットなどを確認し現物をひとつずつ視認していく内に、これらの大事さは思い出していけるから、この「3」という数字だけ、いつもは抽象的に持っていれば事足りるのである

自由病者現代野放図

 

欺瞞に満ちた偽物の「自由」がさも生まれながらの権利のように、酸素と窒素との隙間を跳梁跋扈している。

既存する社会から目を背け背を翻してよい理由など一つもない。

他ならぬ道徳の為、ひいてはアンチ・インディヴィジュアルな人間的生存の為。

 

現代人による、「自由への逃走」。
divideできない最小単位であるところのインディヴィジュアル(個人)への埋没が、現代的「自由」の正体。
インディヴィジュアル同士が(人間としての)同種感覚を見知らぬ他者には拡張しないため、種としての生存本能は限定的になり、人間同士が喰らい合う弱肉強食の世界が出来上がる。隣人とは、「死んだって構わない」別種の動物なのか?


依然生物学的な意味での、(つまりは、客観的な意味での)「人類」という分類は存在するのに。

科学の絶対性を疑うなら疑え。主体者としての主観も時には必要だろう。時には。

しかしこれが自己内部のみにおいての客観(一般)になれば、それがその外を捕食する。

つまり狭い個人的世界の常識(ルール、良識)が、人間各々に膨らみ合って、領土保全の戦争を繰り返すことになるということ。(錦の御旗は至る所にてはためく。)

 

現代的「自由」はただの精神的引き篭もり。

安穏とした「先延ばし」への逃避。

他者を省みなくてよいのは楽だろう。未来をわずらわなくて済む。
しかし現実(事実)には、自分さえ(または家族さえ、自国民さえ)幸せに90年間生き延びれば良かろう、などという放埓は“道徳的に”筋が通らない。


自由は定言的「義務」のためにある。前提命題の無い義務、詰まるところの「倫理」、これは極限善の為ではない。

古人が超越的感性で感得した“生存”のバランス。理屈になる前の、天才的勘による「人類」延長のための方略が、「道徳」という曖昧なもののほんとうの正体である。

つまり生きる術というわけ。

 

統合的な、いわばインテグレイティヴな「人間性」を、インディヴィジュアルな「人間性」に対立して打ち立てる。

統合的「人間性」、これは人類が人類として(分類上)ある以上、存すると言わざるを得ない。現にそれをもって、人は人に共感する。他人を猿とは考えない。どれほど野蛮な変態でも、それを猿とはみなさない。(比喩による罵詈を除けば。)

 

それならば、我々個人的な「人間性」が状況に応じ(自らの信条に従って)、自分自身に「かくあるべし」という義務を負わせて、人生の選択を行っていくのと同じように、(というよりその選択ひとつひとつが人間性(パーソナリティ)を形成していくのかもしれないが、)

統合的な「人間性」もまた、当然義務的選択を歴史の都度行う「べき」なのではないか。

 

最後に、最も重大な現代人の病質を問う。

「義務はあろう。ただしそれを理解していようと関係なく、それを顧みたくはない。義務なんぞ、したくないからしないのである。」

ひとくちに言って下らないが、この自由病者の傲慢は、現代人それぞれの内部に無意識に行き渡っている。

それだけならいいかもしれない。俗っぽい言い回しをすれば、「他人に迷惑をかけないならば。」

自身に受苦を被らなければ。

 

現実はどうだ。鬱屈した早朝の特急列車、ブラック企業?自殺率、「日本死ね」。安倍政権がどうの、選んだのは自分だろう。強行採決、忖度は日本人の通底気質。一億総文盲。解釈、分析、構造、行間、見抜けない。文化的失読症者たち、中身の要らない教育。

 

Twitterで愚痴を笑いに変える。共感。慰め?何かが変わった?変える気ない。

僕の闘争論は浸透しない。しないだろうから予言だけする。若者に勝利は訪れない。

闘い方を知らずに餌を待て。知らぬうちに豚小屋の中、老いて朽ちようじゃないか。大志はいらない。

 

餌を乞う精神的家畜が、牢獄のアパシーを語るのは甚だ馬鹿馬鹿しいということ。

 

それでも言うのだから。

「どうせ世の中は変わらない。労力をかけたくないね。世の先がどうなろうと関係ない。関係ないんだよ。」

「したくないから、しないんだ。」

「それを選ぶのは、僕達の“自由”さ。」

遺す言葉

 

ふとした拍子、“なんとなく”思うこと


自らの死について。


朝曇のさみしさは、僕の孤独を真っ直ぐにつらぬきます。
目を瞑っていても、音楽をきいていても、
この悲しみはどこへも逃げていってくれやしないのです。


涙がこぼれそう。

このシンプルなフレーズに心を動かされつつ
僕はこの世を愛し続けることが出来るのでしょうか。

 

できるなら

純粋なまま、この世界を愛し続けたまま、

信じ続けたまま、

 

苦しくても辛くても孤独でも空虚でも、

それでもなにかを愛することが、

意味があると、報われると、

いずれ世界が愛に包まれて、

ひとがみな、ほんとうの笑顔をささやかに育んでいられると、

信じ込み続けたままで、

 

今のうちに目を閉じて、

ながく眠って目を覚まさず死んでいきたいと願うのです。

 

拝啓、お父様、お母様、おばあ様。

あなたの泣く姿を、例え死んでいった後にも見たくはありません……。

 

一番愛するあなた方が、

私を生かさんと繋ぎ止め、最も僕を苦しめるのです。

 

悲しくてやりきれない。

 

黒い海の淵。

窒息したまま生かされていく感覚。

 

せめて祈りを捧げることにします。

この世界に

ほんとうの幸せが訪れますよう。

名も知らず死んでいく、親愛なる友人たちへ。

 

05/16/2017

 

廃炉

遺書が欲しい

いつ死んでも後悔の残らぬよう。

遺書が欲しい

しつこい執着は生きている間だけで十分だろう

思えば最後まで何も残らなかったなぁ

そんな風に思いたくない

思いたくないが

 

俺が最期まで孤独だったなんて思わないでくれ

俺は最後まで信じていた

愛する人たちの無量の愛情を

事実うそだったとしてもいい

あなた方は私に幸福をくれた

畢竟それで満足だったのかもしれない

 

重い疾風に塵と砕かれ

この世の何も名残に残さず

風化して消えることが出来たら。

 

嗚呼

悲しんでいるのは俺だけじゃない

分かっているが、この切なさは俺だけのものだ

悲しみが蔓延っている大気の渦の中

俺一人俺の悲しみを悲しむ

それその事が遣る瀬無い。

 

知らぬ間に遠くへ行ってしまいたい

俺が死んだなどと誰も知らずに

いつの間にかどこへかの遠くへ

まるで一歩ずつ死へと歩き向かって行ったかのように

沢山の愛するものに背中を見守られているように思い込みながら

後悔

気づけば言葉を垂れ流している

我慢もできず全て吐き出してしまうのは

僕の心がまだ弱いままだからでしょう

 

三割しか笑っていないらしい、僕の心

あと七割を満たすのは何なのか

全部知っているけれども

それの手に入れ方が知られない

きっとこのままでは

 

幼いままの精神と

大人になってしまった精神と

不均衡

 

この思い自体はとても幸福だ

二度とあの場所へは帰らない

二本のレールに向かって

足を踏み出すこともない

それだけは約束しよう

もう誰も傷つけたくない

これは決意だ

 

新しく、もっと無邪気に生まれ変わる為の

教えて欲しい

何も知らない僕に

本当っていうのは何なのか

裸の僕を彩ってくれ

変わりたいな

誰も聴かない為の言葉

生きる意味(つまり、何故それでも生きることを選択するか、ということ)


ここ数週間で、誇張なく幾百もの壁に立ち止まり迷い続け、それなりに多くのかなり進歩的な発見をすることが出来たように思う。心境の変化はいかなる所から生まれたか。

数日間の実感。
周りの人間がようやく鮮明に見えてきた。焦点が合ってきた。この先生き延びるには避けられずそうする必要があったからだろう。絶対的に他者と関わらなくてはならない性命であると思い知らされた。
そうでないと生命を繋げない。冗語ではない。

父親の病気、ひいては死が、よりリアルなイメージを伴ってきた。常に予め覚悟をしていても、一度危機の前に向かわされると、両足で立っているのも耐えられない。同様に祖母もいる、母もいる。彼らがいなくなれば、俺は誰に生命活動を捧げられる?誰から命を受け取ればいい?
同時に、血の繋がった家族に引き代わる唯一の他者を求めていることに気づいた。気づいた、と言えばそれまでは知らなかったかのようだが、そうではなく、今までは家族の愛に閉じ篭り温ぬくと安住していたから目をそらせたのだ。それで素知らぬ振りができた。他者をぞんざいに扱っていた。

同じ時期に、自分から切り離せないものがあることを明白に自覚し始めた。新しい生活は僕に様々なことを教える。時にはそこに自信も添え付けて。
とりわけ、僕は言葉と芸術を再発見する。理性と感性を、僕なりに置き換えた結果なのかも知れない。そこには僕の好きな秩序と情熱が潜んでいた。これらを携えて、どこまで遠く、見えていない遥か宇宙を臨めるだろう。それはもしかしたら、右手人差し指の付け根にある極小さな黒い染みかもしれない。

限界も知った。自己愛は循環的で生産性がない。巡ってきた血液は上手に新陳代謝できず、息苦しく汚れていた。
見えてきた他者は優しくて、僕を見て言葉をかけてくれた。そこに愛があったのを確かに感じて、最初は不思議な気になったが、あとからこれが望んだものだったと気づくことになる。鈍い脳みそは相変わらずのよう。
そもそも一人では生きることが出来ないような弱い人間だった。今までが考えてみれば可笑しいくらい矛盾に満ちていた。「この人に零れる愛を注ぐことができたなら!」そう思うことができる。誰に爪先が向かうかはこれから考えよう。ある心境においては鼻で笑ってしまえるような文言でも、それが一つの真実です。

伝えなければならない対象が次々と思い起こされてくる。時間が無い。生きているうちの親を、家族を、幸福にしたい。何としても俺が、彼らのお陰で生きてこられたこと、その感謝を、知ってもらわなきゃいけない。一秒も絶えず愛してきたこと、愛されている事を知っていたことを伝えなければならない。そうでなきゃ笑って見送るなんてことがとても出来なくなりそうだ。もどかしくて涙が出てくる。苦しくも愛おしい。まだ行かないで。時間が無い。
僕と同じ生涯を過ごす人間がいる事を知っている。少なくとも、一定数いると想定(想像)できる。家族の実感が虚しくも僕から消え去ったら、恐らくそれらの為に生きることを選ぶだろう。顔も知らない、存在の感覚さえ受信されない彼らが、それでも明々と僕の奥の脳に神経を振って彷徨を教えてくれるから、彼に光をあげられたら、それで終に一息をつくことが出来る。光……、自分の名ともなっているこれを特別に贔屓して愛している。
僕は救われたいとずっと望んでいた。僕は僕と同じ人間をどうかして、救いたいと望むことにした。それで僕自身が救われず死んでいったとしても、それで僕は救われる。彼の為に生命を続けるというのは、何ら損のない、要するに旨い話となる。僕が助かるために彼らを助ける。しかし何も不純さはない。僕が助かるというのは即ち、そのまま、純粋に直接的なイコールを以てして、彼らが助かるということを示す。

そうしたら、伝えたいことが見つかった。ついさっきのこと。それは驚くべきことに、間違いなく愛の形をしていた。さらに驚くべきことに、僕はそれを見たことがなかった、とその瞬間気がついた。

当然のこと、自明すぎて見えていないかもしれないが、人間は愛の為に生きている。生きるべきである。本当は、この事が絶えず見直され、自分の中で、他者との関係の中で、世界全体の中で、繰り返し議論され問われ続けていなくてはならない。寧ろ、それ以外に人が生きる意味は存在しない。
臆せず生きろ。人を愛せ。助けを求めろ。愛を問え。
命令形で語ることに何の差支えもない。躊躇うわけもない。
その正しさに疑いが無い。