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孤独と他者、及び真実と嘘についての覚書、一篇の詩を付す。及び救いについて。


Twitterにての連投を収拾、再編集


15/08/01 朝、午前3時

他人に拒絶されるのは嫌だ。僕の周りの連中は、僕をやんわりと拒んできた。
嫌いなのはそういう曖昧さだと思う。中途半端に「yes/no」を誤魔化して、そういう手練手管が誰にだって通用する万能手段だと思ってる。
要するに舐めてんだ。二択の境をぼやかすなよ。嫌なんだよそういうところ。

 むしろ明らかな拒絶をしてくれれば遥かに心地が好いだろう。関わりを患わなくて済む。なぜ俺が相手の心を判断しなければならないのか。一生かかっても明らかにならないようなものを。冷酷なまでの明白さは、それに対しての慈悲ともなろう。誰を傷つけても、真実こそが至上の優しさであることは確かだ。

 嘘は罪禍だ。嘘とは何か。あらゆる心象の隠匿である。心身の不一致、直接的でない因果、その不合一性。つまりは、真実とは異なる行為である。
嘘はその現在を幸福にもしよう。成程確かに心地よく見える。然しそれでは現在をのみしか彩ることはできない。
総てを彩り幸福にし得るのは真実のみだろう。

 人は平気で嘘をつく。人は平気で間違える。平気で間違えたことに気づかないでいる。真実は歪められ、無残に扱われていく。それが残す傷も知らないで、見向きもしないで。痛いよ、痛いよって、呟くこともままならない。呟いたってどうせ聞こえないだろ。俺は見てるよ。お前のその残酷さを、いつだって。

 これは自分自身の後悔、懺悔、贖罪でもあるのかな


15/08/01 夜、午後12時

 他者は不信の上に成立する。不可知を恐れて 触れ得ないその深淵を いつまでも求め続けなければならない。その理解が一に至ればそれがその他者の限界になる。ある意味には一方的な、恣意的なその行為。枠を画定して閉じ込める。結局人間というものを甘く見積っているんだろう。又は期待を掛け過ぎか。

 言わなくても良い言葉があると思っている。言葉を尽くしてさえ、伝え切ることが出来ないものを。

 何故だろう。楽をしたいから?ただ気づかないだけ?言葉が無力だとでも思っているのだろうか。十分に扱いこなせないことを忘れて、棚に上げてしまって  それでいてその無力の責任が言葉にあると見くびるのか? 誰のせいで廃れるんだよ


15/08/01 夜、午後12時
感傷に至っての試作


追詰められている
言葉を垂れ流さなければ身を 心を保っていられない程に
理解されない  明かせば明かすほど
懸隔が露呈する
"dilemma"
どうしたってもう救われない
理解理解理解理解理解理解理解理解
それがほしい
それだけだったのに
また言葉を重ねる 隔たりが積むる

遠く


15/08/02 深夜、午前2時
救いについて、3篇

おれは絶対に死にません
人生にやるべき事が出来ました
俺にしか救えない人はいます
僕を助けて下さい
同じ人間 疎外された人間
生きているべき 理由はないけどね
生きててはいけない理屈も存在しない
俺が教えてやるからね
ちょっと待ってて
俺が行くまで待っててよ
も少しの間生きててよ

俺はみんなよりも少し強かったから
少し図々しく生まれ変われたから
俺が前に立つ
堂々とのさばって
それでいくらでも嫌われてやるよ やるから
離れていかないで まだ逃げないで
いるから あなたと同じような屑だけど
屑だけど構わず
偉そうに生きてる もっと屑なのがいるからさ
君もいて

聞こえますか 聞こえますか 聞こえますか
どこを向いても一人しかいない、性質だって
死ぬべき理由にはならない
聞こえますか
笑ってやらなきゃならないんだよ むしろ
なぜ俺たちが追われなきゃならない
死ななきゃならないって
見返さなくちゃ 救われなくちゃ
きこえますか
酔ってません

演劇とはなにか?1

自分はもしかしたら、演劇というものが嫌いなのかも知れない。

まだ若輩の大学生だ。
人に売りつけられるような公演を打った事も無い。
しかし比較的多くの演劇を売りつけられてはきた。
勿論こちらの能動ではあるから、そういう言い方は誇張があるが。
しかしそう言っても許されるのではないかと思えてしまいそうな、独特の許し難い傲りのようなものが、演劇の世界には充満しているようにも、最近には思えるのである。
当然自分は、演劇と呼ばれる中でのあらゆるジャンルのあらゆる作品を細やかに見通してきたような人間とは違う。
そんな人間からすれば、甚だ高慢な糞餓鬼の戯言のように思われるかも知れない。
 
ただし、そういう人間たちは、常に好意の目を持って観劇に臨んでいるということだって思い返されなくてはならない。
辛辣な批評家であっても、その演劇という土壌自体の面白さを疑って評価を下すものはそう多くあるまい。
演劇に携わる全ての彼らは、常に演劇に対し肯定的な眼差しを絶やさない。当然といえば当然か。
 
しかしそこがいけない。
人間の手からなるものを、どうして純粋に賞賛し切ることが出来る?
ましてや演劇などという、人間社会のこぼれ者のような芸術に、何を求め得ようか?
 
音楽や絵画といった芸術を引き合いに、演劇という鍵括弧で括られそうな「芸術」を疑ってみようか。
簡単な話だが、そもそもその対象とするところが、それぞれの芸術では異なっている。
音楽や絵画は、自然にあるものを対象として捉える。自然そのものかも知れない。
対して演劇はどうだ。
それが捉えるものは、人間だ。
これは大いに不完全な存在である。はるかに自然に劣る。
どちらも美を持つものと表現しても構わないかも知れないが、
自然をそのままの形で美を保つ純粋美とすれば、
人間はそれを求めるもの、真似るもの、享受するものであって、何にせよ美に対して二次的な派生美なのである。
演劇はそれを対象とする。この時点で既に欠けている。
音楽や絵画は、ある種の憧憬なのである。
その美の本質に近づき得ないことを知っているから、それであれほど美しくなれる。領略し得ないという、重要な自覚があるからこそ、反対にその制限のうちでし得る限りの最大限の美しさを見出す。
演劇に携わるものにはそれが無い。
皆、自分の知る演劇こそが最善と、奢っているよりほかが無い。
美には決して近づき得ないこと、そして対象が欠けている存在であるということ。これを忘れる。
それが許し難い。
 
そもそも純粋な芸術ではないということも出来るのかも知れない。常にこれらは社会の反映として世に現れる。(絵画や音楽にもその側面はあるが、それがそれらの常ではない)
芸術の次にある、文化とでもいうべきものであると言えるのかも知れない。
小説や映画はどうだ。あれも状況は同じだ。
しかしあれらは、実体的な生活とは決定的にかけ離れている。
小説はそもそも文字であるし、映画は過剰な取捨を伴う。
容易に対象とするそのものに近づき得ないことが、行為者に自覚されるだろう。
演劇にはそれが弱い。そのことが、演劇に対する誤った信仰を与える事になるのだろう。
臨場感やら、迫真という言葉に騙されて、感動とか核心的とか好き勝手なことを言う。
 
本当に嫌いだ。
 
一歩引いて見てみろ。
そこには愚かな生き物の醜い営みしか転がっていないぞ。
白けていなければ、中中「立派」と呼べるものを成り立たせることは難しいだろう。
実は最もよく似ている状況にあるのに、哲学があるだろうか。
人は皆思い思いの哲学に縛られて生きている。
しかし本当に強力にそれを成立させたいのなら、その底流の諧謔は須らく備うべきなのである。

人生の花

俺は早死にするんだろうか。
苦痛しかない徹夜が終わり、今ふとそう思う。

俺の精神は人より常に働いていると思っている。
つまるところ過剰なのだと。
それの影響、
“ガタ”みたいなのは既に身体に現れていて、
この 目のクマ や 頬のこけ は 一生治らないんじゃないかとさえ思う。頭痛が続く。

人生は短い。
仮に30年やそこらで終わってしまうと想像する、
余りに短い。

この人生を俺は大切に扱ってきた。
恐らく誰より大切に。

しかしそのせいで保守的な、
詰らない生命でもあった。
俺は誰かに恋焦がれたことは無い。

しかし人間の、人間的な生命を駆動させるのが、
他でもない“情熱”というものであるとするならば
(それは大いに有りうる事だが)、
生命の最終の本質は、情愛とか慕情という、過熱気味の精神なのではないかと俺は思う。

人生は短い。
後10年もあるか分らない。

せめて生きている間に一度でも、
身を焼いても構わない心地で恋焦がれ

己の命の短さを知りながらも気高く弁をひろげる
血のように真赤な花を咲かせることが出来れば良いと願う。
そうあるべきだと思う。

Flower of life.
それが俺の生涯の最終か。

報い

報いること
報われること
何かしらの行為に対し返ってくるもの
これらにだけ縛られて
俺は生きているようである
俺は報われたい
今まで誠実に生きてきた
飽きるほど潔癖に
自身の性情のみに ただひたすら誠実に
俺は誠実だったんだ
それだけは間違いない 誰が恨むとも
俺は他人を憎んでいる
この誠実を
いとも容易く踏みにじる他人が
嫌で嫌でしょうがない
それに報いるために生きている
それに報いがくるように
俺がそれを下せるように
しがみついて生きている
通俗の不誠実を振りかざして殴りつけてきた
無意識の悪徳
それらのせいで生きていけないなんて
認められるわけがない
対峙しなきゃいけない
不誠実な世界に
一矢報いて死んでやる
幸せはそれからだ

ついったからはみ出た

書きたい文字が日に日に溢れて出てくる
140文字を積み重ねるのでは次第に限界が見えてきた
言葉は垂れ流さなければならない
生き方が他に無いため
内容の傾向は当然決めてはおかない
言葉は自らにとっての生命そのもの
荒波がうねる様に
猛き脈をもって
それらを立体的に見せる必要がある
息をするように
生身の律動を伴って
躊躇いを許さないで
ここではいかなる言葉も拒まれてはならない